2014年6月30日月曜日

教1)読み:「方丈記」鴨長明


方丈記(ほうじょうき)』 鴨長明(かものちょうめい)  青空文庫より
表現(ひょうげん)()み 「(じょ)渡辺(わたなべ)知明(ともあき)







(1週目)()く川のながれは()えずして、しかも(もと)の水にあらず。よどみに(うか)ぶうたかたは、かつ()えかつ(むすぶ)びて(ひさ)しくとゞまることなし。()の中にある人とすみかと、またかくの(ごと)し。(たま)しきの(みやこ)の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々(よよ)()てつきせぬものなれど、これをまことかと(たず)ぬれば、(むかし)ありし(いえ)はまれなり。(あるい)はこぞ破れ(やけイ)てことしは(つく)り、あるは(おお)(いえ)ほろびて()(いえ)となる。
(3週目)()(ひと)もこれにおなじ。(ところ)もかはらず、人も(おお)かれど、いにしへ()し人は、二三十(にさんじゅう)人が(うち)に、わづかにひとりふたりなり。あしたに()し、ゆふべに(うま)るゝならひ、たゞ(みず)(あわ)にぞ()たりける。()らず、(うま)()ぬる(ひと)、いづかたより(きた)りて、いづかたへか()る。
(4週目)(また)()らず、かりのやどり、()(ため)に心を(なや)まし、(なに)によりてか()をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常(むじょう)をあらそひ()るさま、いはゞ朝顏(あさがお)(つゆ)にことならず。(あるい)(つゆ)おちて(はな)のこれり。のこるといへども朝日(あさひ)()れぬ。(あるい)(はな)はしぼみて、(つゆ)なほ()えず。()えずといへども、ゆふべを()つことなし。』

現代語(げんだいご)(やく)
http://manapedia.jp/text/index?text_id=1993
(1週目)川の(なが)れはとだえることはなく、しかもそこを流れる水は(おな)じもとの水ではない。川のよどみに()かんでいる(あわ)は、()えたり(あたら)しくできたりと、川にそのままの状態(じょうたい)で長くとどまっている(れい)はない。この()に生きている人とその人たちが()場所(ばしょ)も、また同じようなものである。
(たま)()いたように美しくりっぱな(みやこ)の中に、(むね)(なら)べ、屋根(やね)の高さを(きそ)っている。身分(みぶん)の高い人も(ひく)い人も、人の()まいというものは時が(すすむ)んでもなくなるというわけではないが、これは本当(ほんとう)だろうかと思って調(しら)べてみると、(むかし)からある家というのは(めずら)しい。あるものは、去年(きょねん)火事(かじ)(やけ)けてしまい今年(つく)った家もあれば、大きな家だったのが(ほろ)んで小さい家になっているものもある。そこに住む人も同じである。場所は()わらずに住む人は多いが、昔会った人は、二,三十人の中にわずか一人か二人程度(ていど)である。(あさ)()ぬ人があれば、夕方(ゆうがた)に生まれる人がいるという()の中のさだめは、ちょうど水の(あわ)()ている。

(わたし)にはわからない、生まれ死にゆく人は、どこからやってきてどこに()っていくのだろうか。また、生きている間の仮住(かりす)まい/家を、(だれ)のために心を(なや)まして、何のために目を(よろこ)ばせようとする、そのために(かざ)るのかということも、わからない。家の主人(しゅじん)と家とが、常に変化する様子(ようす)をたとえると、朝顔(あさがお)の花と、その()についている(つゆ)と同じようなものである。露が()ちて花が(のこ)ることがある。残るとはいっても朝日(あさひ)がさすころには()れてしまう。あるいは花がしぼんでも露が()えずに残っていることもある。消えないとは言っても夕方になるまで消えないとうことはない。


うたかた:水に()かぶ(あわ)のこと
ためし:先例(せんれい)
(たず)ぬ:調(しら)べる
(よど)み:流れずにたまっていること。
汲々(きゅうきゅう):あくせくしてゆとりがないようす。

問題:考えてみよう。
人と住まいを比べているが、
人は何にたとえているか。(          )(         )
住まいは何に例えているか。(          )(         )



1155賀茂神社(かもじんじゃ)(かも)()次男(じなん)として()まれる
1204出家(しゅっけ)する
1205年「新古今集(しんこきんしゅう)」(鎌倉時代(かまくらじだい)和歌集(わかしゅう))に鴨長明(かものちょうめい)和歌(わか)10(しゅ)(えら)ばれる。
1212年「方丈記(ほうじょうき)」が()かれる。
1216鴨長明(かものちょうめい)死去(しきょ)する。



川の水&露:川の流れ&朝顔

方丈記(Popjisho)